「演じる」と「真偽」

職場や私生活に「ありのままの自分でいられる場所」があることは、
とても幸せなことだと思う。またそれとは逆に、自分のスイッチを
切り替える環境が用意されているのも然りだと思う。

社会ではそれが肩書きであり、役であり、役職に基づいた仕事をこなす。
仕事には向きも不向きもあって、時と場合によっては誰かの助力を必要とし、
それも敵わないならば「演じ」なければクリアできない課題もあるのだと
社会人になって思う節があり、その度に「演じ」からの卒業のために
スキルを求めることが多々ある。

 
わたしはデザイナーです。わたしはデザイナーを演じています。

 
上記について、わたしはデザイナーでいたいし、ありつづけたい。
それについて、より前者だと言える自分に努力する姿は潔い。
私について要約すると、こんな感じだろうか?

一般的に「演じる」とは、「体裁を見繕う」とか「騙す」など、ネガティブな
意味合いにも捉えられてしまう危険性があるが、役者が役に成り切るように、
偽を埋めるほどの真があれば、それはもはや真ではないかと考える。
例えばそれは「音楽の先生」が産休で休んだ時に、「担任の先生」が代わりに
音楽の先生を演じるのと同じようなもので、たとえそれが偽であっても、
「大きな弊害がなく伝わる気持ちが真」であれば人々は真と受け止めるものだ。

音楽の先生よりも下手な担任の伴奏に、逆に心を打たれる。
スキルがない分野においては人は裸でぶつかるしかないし、
自分に非がある場合は相手が誰であろうと謝るのは当然で、
それは粋であり、人間味のある行動だなとも思う。

 
とはいえ今、スキルが伴わず「演じて」しまっている分野については、
それを偽が真となるスキルを身につけたい。これは「指導者」を任された
全ての人に言えることなのではないかと感じている。

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